精神的自由の内と外。
最近、いい質問ですね~って言いたくなる時の気持ちが分かってきた。
そこ拾ってくれますか!ありがとうございます。みたいな。
[B! 表現の自由] はてな村のレモン市場 - trajectory
からです。「意見の内容」への反応はid抜きの引用、「特定の人」への反応はid付きで引用しています。
戸定梨香についてのまとめは、太字のとこだけ読めば大丈夫です。
まず。
特定の場から排除されてもどこかで発表できているなら表現の自由は侵されていない・・・と言う発想はかなり危険じゃないかなあ。18禁とかの件も公共の福祉との兼ね合いで表現の自由が制限されている例
YouTubeやTwitterから永久凍結されても他のサービスを使えばいいじゃないか、宗教団体の抗議で漫画を出版社で出せなくなっても同人誌やネットで発表すればいいじゃないか、という例で考えますね。
動画サイトとしてのYouTube、SNSとしてのTwitterの寡占に近い優位性を思えば、永久にそこに参加できない場合に活動が制限される懸念は大きいと思います。
また、宗教団体の抗議で…というのは、言っちゃうと、幸福の科学の抗議で集英社がルポ漫画の連載を中止し、作品とその作家を守らなかった例です。2022年2月、つい最近の話です。
職業漫画家が、原稿料や単行本の印税による収入を絶たれ、これまでの取材や既に描き上がった原稿も無駄になり、他の出版社も力の強い宗教団体に恐れをなして引き受けてくれないだろう、というのは、かなり厳しいと思います。個人の同人誌と集英社という大きな出版社では販売力や販路も全く違うでしょうし。
この例で発表できなくなるのは作品本体です。YouTuberがYouTubeからBANされたら、作家を出版社が抗議から守ってくれなかったら、個人が表現した作品をそれまでのように発表することはかなり難しくなる。表現の自由に相当の制限がかかると思います。
これらの例については、おっしゃるとおり、「特定の場から排除されてもどこかで発表できているなら表現の自由は侵されていない」という立場はかなり危険であり、私は取りづらいです。制限したのは公権力ではないですが、確かに個人の表現が制限されているからです。
対して、宇崎ちゃんや戸定梨香の例は赤十字や警察とのコラボ案件で、本体の表現活動のおまけのようなものです。批判者による批判は広告・PRの主体である赤十字や警察に対して行われており、宇崎ちゃんの作者や出版社、戸定梨香の所属事務所に対しては行われていません。本体の活動(連載、動画公開など)を批判する気はないからです。YouTubeへの規約違反報告等もないと思います。規約違反ではないからです。本体の表現活動の状況はコラボ以前と変わらず、何も制限されていません。
戸定梨香と警察の間で予定されていたというPR動画第二弾の発表については今も未定のようですが、これは発表されていないので誰も批判も支援もできません。止めているのは警察であり、批判者ではありません。この点、批判を受けて新しいガイドラインを設定した赤十字と対照的だと思います。赤十字の宇崎ちゃんコラボポスター第二弾は、第一弾の批判者にも好意的に受け止められました。
もしそれが「表現の自由」の制限に当たるなら、それは憲法上の表現の自由とは何か別の概念なのかな、と思います。
戸定梨香については、なぜか批判者(の一部であった議連)に対抗者から質問状が送られました。けれど状況は動いていませんよね。対抗者が、質問状を批判者に送るのではなく警察に送付し、抗議し、PR動画第二弾の作成・公開を要求していたなら違ったかもしれません。決定権を持つ主体は批判者ではなく、警察だからです。
私は法律の専門家ではありませんが、以上の解釈に大きな誤りはないはずです。
これは憲法という、日本国の基盤となる法律の話だからです。また、誰の活動を、誰が批判・支持するか、決定権を持つ主体は誰かという、構造の把握の話だからです。
松戸警察が戸定梨香を起用した交通安全PR動画に対する批判への対抗者(これも言っちゃうと、某区議会議員と某ネット論客がメインとなった集団ですね)は、批判者の批判対象を見誤っています。
批判者は「戸定梨香の自由な表現物」を批判したのではありません。「松戸警察のPR動画」を批判したのです。
対抗者が「オタク嫌いのフェミがオタクのための表現物を焼いた!」というばかげた認識しか持てず、誰に対して自らの意見を主張すべきかさえ分からないなら、今後も同じような事態が繰り返されると思います。
「①男性目線のいやらしさを感じる→思う、②はっきり言って不快だ→思わない、③新聞広告としては止めるべきだ→思う」①②③が同一人の意見として並び立つの、かなり理解しづらいね。自分を偽ってない?
「自分は別に不快とは思わないけど、女子高生を男性目線のいやらしさで描いた絵で、問題だよな。日経の広告としては止めるべき」です。主観的な感情と理性的な判断は違います。
感情と判断の違いといえば、逆に私は「自分もこんな広告はおかしいと思うが、表現の自由を守るために、止めるべきだとは言わない」的な考え方が理解しづらかったんですよ。
私は「自分がおかしいと考えるなら、問題だと自由に言ってよい(言わないのも自由)。それを聞いてどうするかは相手が相手の責任において自由に判断することだ」というスタンスです。
おかしいと思うのに止めるべきとは言わないとは…?と不思議だったのですが、おそらく、「自分が止めるべきだと言って相手が止めたら、自分が相手の表現の自由を侵害してしまう。だから止めるべきとまでは言わない」と考える人の方がずっと多いのだろうな、と最近気づきました。人の思考回路は分からないので、推測ですが。
内心の自由と表現の自由が直結しがちな人と、あまり直結していない人(相手の自由を予め保護するために、自分の自由を抑制する。相手も当然そうするはずと思い込む場合は、自分が何か言われると「弾圧」と捉えがち)の違いかもしれません。
規制はしたいが規制派と思われたくないし自由の範囲は私が決める、という強烈な歪みが各所にあらわれていて
思われたくはないですが、規制派と思うのは当然、あなたの自由であり、私に奪うことはできません。
で、「自由の範囲は私が決める、という強烈な歪み」とのことですが、私のいう「自由」は憲法上の自由とそんなにかけ離れていないと思うんですよ。
「表現の自由派」の人のいう「自由」が何なのか、いつもよく分からないので、あなたの考える「自由の範囲」を教えていただけたら嬉しいです。強烈なんでしょうね。
「見ない自由」持ち出しといて表現の自由否定するってどういうセンスなんだろう
私がどこで「見ない自由」持ち出してたか指摘していただけますか?他の人と勘違いしてますか?
あと、あなたの考える「表現の自由」の概説を教えていただけたら嬉しいです。
これ言いながら「ミサンドリストからの被害はよくわかんないから」はあまりにも勝手すぎるやろ。
非当事者が当事者を差し置いて語るのは極めて傲慢だと考えるからです。私はミサンドリストの被害当事者ではありませんので。
その下の段落に、当事者でもないくせに当事者をジャッジする輩への怒りを吐露していたかと思います。若干分かりにくいかと思い、説明を加筆しましたが、おそらくその前にブコメを残されたんですかね。
もし、あなたの意図が「id:nowa_sはミサンドリストなのだから加害当事者として語れ」という事であれば、私のミサンドリーとそれによる他者への加害が現れた箇所を具体的に指摘してください。